MUSIC

電子音楽を発明した92歳のエジプト人、ハリム・エル=ダブ

昨年の暮れ(2013年12月)、エジプトの独立系ニュース・サイト“Mada Masr”に、『Music permeates everything』という記事が掲載されました。電子音楽のパイオニアのひとりであるエジプト人作曲家、ハリム・エル=ダブ(Halim El-Dabh)の貴重なインタビューを元に構成されたこの記事は、一部で大きな反響を呼び、フランスのニュース・サイト“Worldcrunch”といった複数のメディアに転載されました。御年92歳(!)になるエル=ダブにインタビューを行い、記事を執筆したのは、ニューヨーク在住のエジプト人女性ジャーナリスト/ブロガー、Maha ElNabawi氏。Mahaさんは、同郷のサウンド・アーティストへの取材を重ねるうちに、その原点であるエル=ダブに徐々に興味を持っていったそうです。

ICONでは、この記事の日本語訳をぜひとも掲載したいと思い、さっそくMahaさんにコンタクト。するとMahaさんからは、“ハリム・エル=ダブは、私が取材した中で、最も興味深い人物のひとりです。彼の成し遂げてきたことを、もっともっと多くの人たちに知ってほしい。従って、私の記事の日本語訳を掲載してくれるのなら、こんなに嬉しいことはありません”との返事が返ってきました。こうしてMahaさんのご厚意により掲載できることになった、電子音楽のパイオニア、ハリム・エル=ダブのインタビュー。とても興味深い内容になっていますので、ぜひご一読ください。

Special Thanks to Maha ElNabawi. Originally Published on Mada Masr.

Halim El-Dabh

私は先週、カイロに住む音楽家の友人に、電子音楽を最初に作ったエジプト人、ハリム・エル=ダブの話をした。その友人は、電子音楽の創始者はドイツ人だとばかり思っていたらしく、たいへん驚いていた。ハリム・エル=ダブは、若干23歳で古代の治療の儀式を録音し、それを加工して作品を作った。1940年代初期のことである。

『Wire Recorder Piece』という曲名で知られるこの作品は、催眠術のような2分の曲である。エコー・チェンバーのリバーブが深くかけられ、歪んだ聖歌のようなボーカルが、ヘビの蜷局のごとくループしては時々息継ぎのために止まる。うなり声の螺旋とも言える曲だ。この長尺バージョンである『The Expression of Zaar』と名付けられた曲は、磁気テープに録音された作品として1944年、カイロのアート・ギャラリーで公開された(そのギャラリーについては不明)。

その数年前となる1939年、アメリカ人の作曲家であるジョン・ケージは、2種類の速度が選択できるターンテーブルで再生するための、シアトルのラジオ局で発見したテスト・トーンが収録されたレコードと、ミュートしたピアノ、そしてシンバルのための作品『Imaginary Landscape No. 1』を発表している。しかし、加工したサウンドをワイヤー・レコーダー(テープ・レコーダーの登場以前に存在した、ステンレス・ワイヤーに音声を磁気録音する機械)を用いてレイヤー録音したのは、ハリム・エル=ダブが最初の人物だ。つまり、厳密に言うなら、ハリム・エル=ダブこそが電子音楽の創始者と言えるのである。後にミュージック・コンクレートのパイオニアとして知られるようになったフランス人作曲家、ピエール・シェフェールが同じ手法を用いて『5 Etudes de Bruits』をフランス国営放送で発表したのは、エル=ダブが『The Expression of Zaar』を発表した4年後のことだ。

私がエル=ダブの作品を初めて耳にしたのは数年前、エジプト在住のサウンド・アーティストたちにインタビューしたときのことである。そのときから電子音楽の草分け的存在であるエル=ダブに対する興味が次第に大きくなり、遂に今月、私は彼へのコンタクトに成功した。私はカイロから、彼が住むオハイオ州ケントへ電話インタビューを行ったのだ。92歳と高齢ということもあり、電話インタビューが上手くいくか、いささか心配ではあったが、いざ話し始めると私の不安はすぐに吹き飛んでしまった。彼は思考、記憶、ユーモア、そして野心をまったく失っていなかったのである。それどころか、依然として熱くたぎるようなエネルギーに溢れていたのだ。

若くしてキャリアをスタート

ハリム・エル=ダブは1921年5月4日、カイロのサカキニ地区にある農家に生まれた。幼少期から音楽の影響を受けて育ったと彼は言う。

「9人兄弟の末っ子だったこともあり、家族は子どもの育て方にじゅうぶん慣れていたようだったね」。彼は当時のことを思い出したのか、クスクス笑いながら言った。「3歳くらいから数年間、私はカイロの修道院でフランス語を学んだんだ。しかし家に帰るとフランス語ばかり話すので、両親は私をヘリオポリスの小学校に入学させたのさ」。

アラビア語と英語を織り交ぜながら彼は続けた。「私の兄弟と姉妹は全員、楽器を演奏したんだ。兄のアディーブは、ミュージシャンとしてちょっとした人気者でね。だから私も自然と楽器に触れるようになっていった。 兄や弟たちはいつもピアノの取り合いで喧嘩をしていたので、私はタブラやドフなどの打楽器に興味を持つようになったんだ」。

Halim El-Dabh

ジャンベを演奏するエル=ダブ(Photo: Facebook page

1932年、11歳のエル=ダブは、カイロで開催された有名な『Conference on Arabic Music』に兄弟に連れて行かれ、現代音楽と出会うことになる。ハンガリー人の作曲家であり、民族音楽学を確立した一人でもあるBela Bartokや、ドイツ人作曲家、Paul Hindemithの作品に彼は打ちのめされた。ワイヤー・レコーダーに録音された音楽に出会ったのもそのときである。

農業工学を学ぶためにカイロ大学に進んだエル=ダブだったが、そのころにはピアノの作曲スキルはかなり上達しており、彼の作品をラジオで聴いたエジプトの王子に招待されたほどだったという。そして在学中に人生初の賞を獲得。作曲したピアノ作品がエジプトのオペラ・ハウスで表彰されたのだ。1944年に大学を卒業後、エル=ダブは兄弟が地元のユース・センターで主催していたアバンギャルド・アートと思想のディスカッションに参加。そこで彼は、小説家ナギーブ・マフフーズや、社会主義者サラーマ・ムーサといった反植民地主義の文化人たちと交流を深めた。

エル=ダブは言う。「彼らとのディスカッションは、その後の私の思想や文化的関心の形成に大きく影響したんだ。宗教に関しての議論はなかったが、そこではエジプトの民族自決や国家のアイデンティティ、近代主義のために過去の植民地思想から脱却することが急務であるという議論が多くなされていたね」。

その後、エル=ダブは村から村へ旅をしながら、農民に穀物を効率よく育てる方法を教える仕事に就いた。

「そのときの旅で、音と音楽の関係について真面目に考えるようになったんだ」と、彼は言う。「ある瞬間、単なる音に対しても、音楽と同じくらいの愛情が注げることに気付いたんだ。そして音を使って害虫や疫病からトウモロコシや麦、豆を守る方法についての研究を始めたのさ。私は雷雨の最中に生を受けたせいか、昔から音に対して敏感だったんだよ。鳥やコガネ虫の羽ばたきが叫びのように聴こえたことにインスピレーションを受け、金属製の器具の先端を擦り合わせてノイズを発生させることで、害虫を防ぐ方法を研究したんだ。穀物から蜂を遠ざけるために鏡を使ったりもしたね」。

発見の瞬間

この実験を続けるうち、エル=ダブはカイロにある小さなインディペンデント・ラジオ局、Middle East Radioと出会う。そのラジオ局にあったのが、ワイヤー・レコーダーだ。ワイヤー・レコーダーを使った実験を繰り返すうち、彼は録音した素材を加工する方法を編み出した。無意識のうちに電子音楽の礎を築いていたのだ。

1943年にZaarの儀式を録音した彼は、リバーブや電圧調整、移動式の壁のある部屋での再録などといったスタジオ・テクニックを用いて音の加工を行った。彼いわく、肉体を超越したパフォーマンスによって生まれたバイブレーションを、より強調しようと考えたとのことだ。

「Zaarにはずっと興味があったんだ。女性だけの儀式というのも大きいね」と、彼は言う。「女性は、私たちの文明の中心にいる存在だ。私たちの存在を決定付けているのは女性に他ならない。Zaarの音、そして歌の癒しのスピリットを記録したいと思ったのさ。そのときは自分が電子音楽を作っているなんて気持ちはまったくなかったね。ただ音を加工することで、Zaarの大切さを発見できたのは確かだ。体の動きや思考のプロセス、心の動き、異なる進行による異なる考え、すべてが加工されたサウンドと調和していたんだ。まったくの異世界を作ることができたんだよ」

自身の作品、『Wire Recorder Piece』を振り返って彼は言う。「あの作品は、女性、そして祈りそのものだ。精神的な高みに達するために必要なバイブレーション、心の内面の音を見つけたかったんだよ。電圧を調整し、ハーモニーの基音を取り除いた。音を変化させることで別の本質、隠れていた内面の声を引きだそうとしたのさ。録音物に隠された意味を探し出すという行為は、いま思えば電子音楽の考え方そのものだったと言えるだろうね」

ジュリアードには行かず

1948年の彼の作品、『It is Dark and Damp on the Front』は、パレスチナでの戦争をテーマにしたものだ。この作品では、ピアノの弦の上に物を置いて演奏するスタイルが大きな注目を集めた。そして1949年、カイロのAll Saints Cathedralでパフォーマンスを行った後、彼はアメリカ大使館の招待で、ニューヨークのジュリアード音楽院で学ぶ機会を得たのだ。

「アメリカ行きの最終的な許可を得ると、私はすぐにカイロにあるアメリカ文化センターの図書館に行ったんだ。そこにいた素敵なエジプト人女性に、“アメリカに行くのでアメリカの音楽が聴きたい”と告げると、彼女は私にネイティブ・アメリカン音楽のLPを20枚渡してくれた。私はすっかりその音楽の虜になってしまったんだ」。

そしてフルブライト奨学金を受ける際、彼はジュリアード音楽院に行く代わりに、ニュー・メキシコ大学でホピ族の音楽を研究したいと希望した。

ニュー・メキシコ大学での数年間、彼は膨大な量の作品を手がけ、20世紀の伝説的なアーティストたちとコラボレーションを行った。舞踏家、マーサ・グラハムのための音楽を作曲し、さらにはコロンビア・プリンストン電子音楽センターに1959年の創設以来初めての外部の音楽家として招待され、ジョン・ケージ、ウラジミール・ウサチェフスキー、オットー・ルーニングらとともに活動した。

Halim El-Dabh

ダラブッカを演奏するエル=ダブ(Photo: Facebook page

話し言葉や歌、パーカッションを電子音とともにミックスし、処理を行うという手法で、エル=ダブは電子音楽のパイオニアとしての地位を確立した。彼の古代および民族音楽に対する興味が、有機的な作品作りに影響していると音楽学者、トーマス・ホームズは言う。素晴らしい電子オペラ作品『Leiyla and the Poet』は、コロムビア・レコードのコンピレーションの収録曲として1964年に発表され、若い作曲家たちに多大な影響を与えた。彼はその後、300曲ものオペラ、協奏曲、舞踏曲、室内楽、そして電子音楽作品を作り出した。未発表の楽曲も数百はあると彼は言う。1961年、アメリカ市民となった後も彼は、自宅のあるオハイオ州ケントとエジプトを行き来する生活をしながら、同時に民族音楽学者としてアフリカ中を旅した。

ピラミッドの建築法

1960年代の終わり、エル=ダブはガマール・アブドゥル=ナーセルの命を受けてエジプトに招待され、文化省のSawrat Okashaのもとで仕事を行った。そこで彼は、ギザのピラミッドでの光と音の演出のためのスコアを作曲したのである。彼が最後にギザを訪れた2006年、そのスコアはまだ使われていたそうだ。

人々は賛美歌を耳にしたとき、通常以上の力を発揮することができる。エル=ダブは、この力がピラミッド建造時に利用されたのではないかと考えた。

「ピラミッドは、エジプト人が踊って歌い、巨大なブロックと戯れた結果、誕生したもののように感じられるんだ」と、彼は言う。「コンゴのある部族を訪れたことがあるんだが、彼らが聖歌を歌うと、中の一人がジャンプして、瞬間的に水平に空中移動したんだ。ピラミッドのブロックは、こうやって運ばれたんじゃないかと私は思ったのさ。この方法であれば、ブロックを簡単に運び、積み上げることができたはずだ」。

その後、彼はエジプト政府から民族音楽学の研究を依頼され、エジプトやエチオピア、コンゴ、ザイールなどの国を旅して回った。各国の伝統的なZaarの関連性にフォーカスしながら、アフリカの失われた音楽の調査、録音を行ったのだ。彼は1969年からケント州立大学で教鞭を執り、2001年には同大学から名誉博士号が贈られた。また、他にも数々の賞や特別研究員の資格を贈られている。そして1974年から1982年まで、彼はスミソニアン研究所で、エジプトとギニアの操り人形に関する民俗プログラムの顧問として働いた。

Halim El-Dabh

エル=ダブ、2009年(Photo: Wikimedia Commons

「私の研究は、世界中の異なるコミュニティが、いかに共同生活を行えるかということだったんだ。それは同時に、自分自身を探す行為でもあったのさ」と、彼は言う。「私が音楽を好きな理由は、宇宙と繋がることができるからなんだ。音楽は人間ひとりひとりに触れることができる。単に耳で聴くものではなく、身体で体験するものなんだ。すべての人間はジェスチャーを使う。ある意味身体の使い方でその人の生き様を表現しているとも言えるんだ。それぞれの文化によって異なるジェスチャーは、様々なものから解放され、自分自身を見つけるための素晴らしい手段になっている。私はジェスチャーと音との関係性にも興味があるんだ」。

現代エジプトに対する思い

インタビューの最後、私は現在のエジプトの状況について、彼に訊ねてみた。

「エジプトには長い歴史で培われた豊かな伝統がある。さらには膨大な資源にも恵まれている。それなのになぜ内紛が起こるのだろうか? 新世界への道は、それぞれの役割を理解することだろう。国の景気はどんどん悪くなっている。生活を良くし、収入を増やす唯一の道は、自分自身の資質を知ることだろう」と、彼は提言した。

「皆が大切な存在であり、人々が社会の中でそれぞれ重要で固有な役割を担っているという考えを、エジプト人たちが思い直してくれることを願っている。ネガティブな思考に縛られず、ポジティブな行動と競争によって国を築いて欲しい。ポジティブなエネルギーを継続的に生み出すこと、それはアートそのものなんだ。未来を理解するためには過去を理解する必要があるのさ。知識を得るために、学がある必要はない。エジプトでは今まで以上にアートが重要なんだと思うよ。とにかく、私たちは常に学び続けなくてはならない。たとえ何かを成し遂げたと感じたとしてもだ。私は92歳になるが、何かを達成したとは一度たりとも感じたことはないよ」。

Halim El-Dabh